平熱日記

平熱の日記

2021年7月23日(金)のこと/開会したね

何はともあれ開会式を家で見た。

ショーの演出というものは、ライブとか舞台とかそれに準ずることを数多く手がけたことがある人がやったほうがいいなと思った(すでにやってらしたらごめんけど)。

 

視聴後の感想は、「1日中Eテレ見ていた気分」。

全体を通して何となくピースフルで多様性があるようだけど、一つひとつのパートはそれぞれブツブツと切れていた感じ。番組編成なら一つの番組に一つのコンセプトがあればOKだけど、一つのショーでそうなるのは…とも。

その上、パートごとの意味をこちらで汲み取らないと、「日本の伝統/ポップカルチャー」と「多様性のある表現」がするすると脳みその表面を薄く滑り落ちてわからなかった。てか手話通訳は入れようぜ……。

五輪には反対だと言いながら、リオのトーキョーショー以来、壮大で厳かな、あるいはキャッチーな何かを開会式に期待してしまっていた自分に気づかされた。

 

個人的な感想は以上として。

下記、自分が書き留めておきたいこと。

そんな開会式の行われた日、緊急事態宣言下の東京で新型コロナの新規感染者数は1359人だった。その前日は1979人。

およそ人口1400万の東京の検査数は7月22日において7270人(抗原検査、PCR含めて)。比べて、選手・関係者含めて5万人強のオリンピック選手団PCR検査数は日毎の都の検査数を上回っているそう。覚えておこう。

韓国選手団が掲げた横断幕を「好戦的だ」と下げさせた横で、日本は旭日旗をずいぶん前から公式で使用OKとしている。覚えておこう。

東京パラリンピックに出場予定だったアメリカの競泳金メダリストが新型コロナウイルスを理由に個人アシスタントの帯同を認められず、棄権した。覚えておこう。

2020年時点で東京オリンピックの開閉会式執行責任者を務めていたMIKIKO先生が、どんな状態で辞任まで至ったのか、覚えておこう。(それに伴いたくさんのクリエイターの方々の努力が踏み躙られたことも)

開会式の選手入場時に流れていたドラクエの楽曲を作ったすぎやまこういち氏は、杉田水脈衆院議員の「生産性」発言を支持していた。覚えておこう。(そして、選手入場時にかかっていたゲームミュージックの作曲者には使用の事前通達がなかったそう。権利はゲーム制作社サイドにあるとしても、クレジットもなかった。覚えておこう)

復興五輪と語りながら、追悼の示す先は演出上どこに向いていたのか。覚えておこう。

競技が始まる間近で大坂なおみ選手が聖火ランナーの最終点火者に抜擢。その抜擢の意図と、見事にその実務を果たした彼女が矢面に立たされた結果いまどんな言葉を浴びせられているのか、覚えておこう。

開会式が行われたオリンピックスタジアムの外では多数の五輪反対派の人たちが声を挙げていた。宇都宮健児氏が立ち上げたオリンピック反対署名は現時点で45万人を超えている。たくさんの人たちの反対の声は議論の場に上がっていたか。覚えておこう。

 

 

アスリートやボランティア、開会式に出演した方々にリスペクトを持っている。

昔からわたしは開会式の選手入場が好きで、いろんな国の選手がたくさんのことを背負って一堂に会する姿には、やっぱり感動してしまう。

小中時代にはソフトボールをしていて、2004年のアテネも2008年の北京もしっかりとその姿を追いかけていた上野選手が、2021年の今も輝いて爽やかにマウンドに立っている姿を見て毎試合涙ぐんでしまう。

その横では陽性者が出て、100%の力が出しきれないチーム、棄権になる選手もいる。連日国内外の五輪関係者から10数人の陽性者が出ている。この大会の記録はどう扱われていくのだろう、という疑問が残る。

 

ただ一口に「感動した」というのは簡単で、だからこそ「無かったことにされてしまうこと」への思いは意識的に持たなきゃいけないだろうと。感動はいつのまにかたくさんのものを洗い流してしまう。だから忘れないように書いておく。

 

この期間、はじまったのだからやらなくちゃとか、全部を知らないと批判ができないという言葉をたくさん見た。

結局こういう言葉ってどう思われたいかということをオブラートに包んだ表明なのかなと思う。この社会で正しい、脅威になり得ない存在ですという表明のような。よくよく見ていくと、「よくわからないから選挙に行かない」と同じ原理だと思うんだけど。民主主義の敗北感ある…。

 

全てを知らない前提で、わかり合えないことから始めたい。

自分が何を支持してどこに意識的になって、なにを言葉にするのか。知るために、言葉にしたっていいだろう。