平熱日記

平熱の日記

2021年5月23日(日)のこと/個人的なことは政治的なこと

パートナーとともに、温泉に向かった。感染状況を鑑みて6月に予定していた旅行を諦めたところで、それならば近場でゆっくりしようかとその場で宿を決めて、車で向かう。

明治からあるという旅館で、川にかかる橋の上に建設されたロビーを通って建物の奥に進む。映画『千と千尋の神隠し』の橋を通って湯屋に入るシーンを思い出した。

露天風呂がついている部屋を選び、部屋にこもって話をして、考えごとをした。みんなが寝静まったあとに、明治時代からあるという旅館のなかをぐるりと巡る。

明治・大正・昭和・平成と、折々で改修を重ねながらいまもある建物は、場所ごと時代を感じる意匠がこらされていて興味が湧く。調度品もそれぞれの時代を感じ、詳しくはないけれど、趣あるなと感じる(日本を代表する文豪が湯治に来ていたそうで、そんなのも国文学専攻卒として感慨深かった)。とにかく、ゆっくり過ごした。

 

SNSを眺めては少し疲弊してしまっていた最近だった。前回の日記に書いた「種の保存」発言をしたのは栃木3区の衆議院議員の、やなかずおだった。栃木3区はただただ地元である。

地元の選挙情報は「わたなべよしみ」の失脚以来わたしの中でアップデートされておらず、それはたぶん、多くの栃木県北の住民の認識からもズレないと思う。

農業がさかんで保守的な土地にて、みんなよく知っている政治家が失脚し、自民の候補者が立っていたから票を入れた。実際そんなところでめちゃくちゃ保守的な人が当選したのかな。選択肢も少ない土地で、よく名前が知られた党の、よく知らない人に票が集まるのはある程度仕方のないことだなと思う。

 

旅館の夜は、そんなふうに「ある程度仕方がない」といろんなことに対して思いながら、なんでわたしは政治や社会課題について声を上げなきゃと思うんだろう、と考えていた。

 

フェミニズムを学んで、感銘を受けたことばがある。"The personal is political."「個人的なことは政治的なこと」。第2波フェミニズムのスローガンとなったことば。

 

もともとわたしは政治のことを正直「勝手に遠くで進んでいるもの」として認識していた。文字通り「右も左もわからない」ほど。

でも、わたしが感じる生きづらさはわたし個人のせいだけじゃなく、もっと大きなところに理由があるかもしれない…とフェミニズムを学びはじめたことと同じく、わたしや誰かが受ける理不尽は社会と地続きであって、逆にわたしの一つひとつの行動と選択は社会に還元されていくものかもしれないな、ともうっすら思っていた。

「個人的なことは政治的なこと」ということばと出会って、そんなふうに感じていたことを、簡潔に言語化されたように感じた。

 

日本からほとんど出たことのないわたしだけど、とりわけ政治や経済が日本では禁忌のような扱いになっていると感じる。そこに触れると「なんかすごいね」みたいに片付けられるか、「怖い」と引かれる。

和をもって尊しとなす、それが日本の道徳といえば聞こえはいいけど、少しでもみんなから外れたら「異端者」のレッテルが貼られることも感じている。

「多様性を認める」「みんなの個性を尊重する」みたいなポーズを取っているひとでも、政治の話は全くしないとかある。そこは切っても切れない部分なんだけど、そういう空気は確かにある。

ここでも「ある程度仕方ない」とは思う。

思うんだけど、誰かに対して「仕方ない」と思うことは、自分が仕方ない行動を取る理由にはなり得ない。

 

他人の言動を強制することはできないからこそ、社会をより「マシな方(主観)」に持っていく個人的な努力は続けていく。

孤軍奮闘している人もいるだろうし、心が折れそうな人もいるんだろう。そんな人には自分が声をあげることで寄り添いたい。たくさんのグラデーションがあって、関心はあるけど触れられない人もいると思う。それはそれで仕方のないことだと思っているし、わたしはそんな人が疑問を感じたときに、いつでも向き合って話せるような心持ちでいたい。

「個人的なことは政治的なこと」。

わたしは政治が形づくる社会の断片であり、一部であり、わたしがとる選択は社会に還元されていく。これは全然大げさじゃない。と思いながら、今後もわたしは行動を選ぼうと思う。

 

最近は怒りや虚無で変に焦っていたけれど、自分の思いをきれいに整理して、ペースを取り戻す時間を作ることができた。ありがたいね。