平熱日記

平熱の日記

2021年5月25日(火)のこと/見た目は誰のため? と、コーチングの日

朝起きて、新宿に向かう。歯列矯正の無料カウンセリングのために、矯正専門歯科を予約していた。

自分の歯は、一見整っているように見えるけど結構問題ありだと思っていて、前歯の間も微妙に空いているし、奥歯に乳歯が一本あるせいでうまくかみ合っていない。なによりちょっと出っ歯で、普通にしていたら前歯でものを噛み切れない。ていうか口が前にでてる(界隈では口ゴボというらしい)。

行きつけの歯医者で「歯を抜かず、見た目を整えられる」としてインビザライン(マウスピース矯正)をおすすめされたことと、ちょうど妹が歯列矯正を進めていたことに背中を押され、矯正歯科のカウンセリングを数件うけてみることにした。

 

今日行った歯科医院は、率直な意見が聞けてよかった(予算感の都合でもしかしたら違うところを選ぶかもだけど)。インビザラインの場合、自分の歯は根本から治せるかグレーなところにあること、どこを治療のゴールにするかで結果が変わってくること、インビザラインは普通の歯科医(矯正専門でない)でもできてしまうので、やるとしても治療の方向転換ができる矯正専門医でやったほうがいいことなども聞けて、まあまあ有意義な時間だったなと思う。(てか行きつけの歯科医では絶対やらないと決めた)

そんな話の中で結構衝撃だったのは「もし恋人が居たら、念のため了承を得ておいてほしい」と説明を受けたことだった。なんでも、過去に何件か、恋人からの了解が得られずに、わざわざつけた器具を外した患者さんがいたそう。

「矯正器具なんてものを理由に嫌な気持ちになる恋人なんてそれまでなんだけど、実際に自分の意思で器具をつけても、会うたびに”いつまでつけるの?””まだつけてるの?”と聞かれると、本人のモチベーションは下がっちゃうんだよね。矯正はあくまで本人が納得して進めるものなんだけど、念のため聞いてみてね」

多分わたしが他人の意見で器具を外すことはないんだろうな、とは思いつつ、わざわざつけた矯正器具を誰かの意見で取り外すまでの葛藤を考えると、かなしくなってしまう。何気なく発した言葉でも、澱のように残り続けてこころを削っていくものってたくさんある。歯列矯正自体、日本ではそこまで浸透していないこともあって、たくさんの迷いのなか治療を受けると決めた人が、信頼している人の言葉でゆらいでしまうことは、少なくないんだろうなと思う。

恋人だけじゃなく、親や祖父母など、家族の理解を得るのも大切だと言っていた。数年という期間をつかって、歯列矯正を達成した人たちに拍手を送ると同時に、そんな悲しいことが起こりませんように、外したその人も、いま心からの笑顔で笑えているといいな……と思う。

 

そんなこんなで、そのあとにはコーチングの体験セッションをいれており、新宿から家に帰るか迷った結果、西新宿にあるコワーキングスペースにてセッションを受けることにした。おもったより肩肘張らなくても入れる場所でいごこちがよく、俄然興味が湧く。自分が住んでいる街にも良さそうなところがあったので、6月〜7月は契約してみようかなと思う。

そしてコーチング。有給消化といいつつ、実情無職でいる身の上、まず家族やパートナーでもない他人と話すこと自体が尊いと思った。自分の中で思い込んでいるところを改めて見つけ出し、次のアクションも決まる。

ひとまず、有給が終わる7月まで伴走していただくことに決めた。

実は別でキャリアカウンセリングを受けていて、自分の過去や認知の歪み、これまでキャリアと向き合って自己分析を重ねている最中でもある。コーチングはより具体的な転職活動の一歩を進めていくためのものとして、利用を進めていきたいなと思う。このあたりの活用方法や棲み分けも、具体的に相談してみようと思った。

2021年5月23日(日)のこと/個人的なことは政治的なこと

パートナーとともに、温泉に向かった。感染状況を鑑みて6月に予定していた旅行を諦めたところで、それならば近場でゆっくりしようかとその場で宿を決めて、車で向かう。

明治からあるという旅館で、川にかかる橋の上に建設されたロビーを通って建物の奥に進む。映画『千と千尋の神隠し』の橋を通って湯屋に入るシーンを思い出した。

露天風呂がついている部屋を選び、部屋にこもって話をして、考えごとをした。みんなが寝静まったあとに、明治時代からあるという旅館のなかをぐるりと巡る。

明治・大正・昭和・平成と、折々で改修を重ねながらいまもある建物は、場所ごと時代を感じる意匠がこらされていて興味が湧く。調度品もそれぞれの時代を感じ、詳しくはないけれど、趣あるなと感じる(日本を代表する文豪が湯治に来ていたそうで、そんなのも国文学専攻卒として感慨深かった)。とにかく、ゆっくり過ごした。

 

SNSを眺めては少し疲弊してしまっていた最近だった。前回の日記に書いた「種の保存」発言をしたのは栃木3区の衆議院議員の、やなかずおだった。栃木3区はただただ地元である。

地元の選挙情報は「わたなべよしみ」の失脚以来わたしの中でアップデートされておらず、それはたぶん、多くの栃木県北の住民の認識からもズレないと思う。

農業がさかんで保守的な土地にて、みんなよく知っている政治家が失脚し、自民の候補者が立っていたから票を入れた。実際そんなところでめちゃくちゃ保守的な人が当選したのかな。選択肢も少ない土地で、よく名前が知られた党の、よく知らない人に票が集まるのはある程度仕方のないことだなと思う。

 

旅館の夜は、そんなふうに「ある程度仕方がない」といろんなことに対して思いながら、なんでわたしは政治や社会課題について声を上げなきゃと思うんだろう、と考えていた。

 

フェミニズムを学んで、感銘を受けたことばがある。"The personal is political."「個人的なことは政治的なこと」。第2波フェミニズムのスローガンとなったことば。

 

もともとわたしは政治のことを正直「勝手に遠くで進んでいるもの」として認識していた。文字通り「右も左もわからない」ほど。

でも、わたしが感じる生きづらさはわたし個人のせいだけじゃなく、もっと大きなところに理由があるかもしれない…とフェミニズムを学びはじめたことと同じく、わたしや誰かが受ける理不尽は社会と地続きであって、逆にわたしの一つひとつの行動と選択は社会に還元されていくものかもしれないな、ともうっすら思っていた。

「個人的なことは政治的なこと」ということばと出会って、そんなふうに感じていたことを、簡潔に言語化されたように感じた。

 

日本からほとんど出たことのないわたしだけど、とりわけ政治や経済が日本では禁忌のような扱いになっていると感じる。そこに触れると「なんかすごいね」みたいに片付けられるか、「怖い」と引かれる。

和をもって尊しとなす、それが日本の道徳といえば聞こえはいいけど、少しでもみんなから外れたら「異端者」のレッテルが貼られることも感じている。

「多様性を認める」「みんなの個性を尊重する」みたいなポーズを取っているひとでも、政治の話は全くしないとかある。そこは切っても切れない部分なんだけど、そういう空気は確かにある。

ここでも「ある程度仕方ない」とは思う。

思うんだけど、誰かに対して「仕方ない」と思うことは、自分が仕方ない行動を取る理由にはなり得ない。

 

他人の言動を強制することはできないからこそ、社会をより「マシな方(主観)」に持っていく個人的な努力は続けていく。

孤軍奮闘している人もいるだろうし、心が折れそうな人もいるんだろう。そんな人には自分が声をあげることで寄り添いたい。たくさんのグラデーションがあって、関心はあるけど触れられない人もいると思う。それはそれで仕方のないことだと思っているし、わたしはそんな人が疑問を感じたときに、いつでも向き合って話せるような心持ちでいたい。

「個人的なことは政治的なこと」。

わたしは政治が形づくる社会の断片であり、一部であり、わたしがとる選択は社会に還元されていく。これは全然大げさじゃない。と思いながら、今後もわたしは行動を選ぼうと思う。

 

最近は怒りや虚無で変に焦っていたけれど、自分の思いをきれいに整理して、ペースを取り戻す時間を作ることができた。ありがたいね。

2021年5月20日(木)のこと/他人の靴を履いてみること、連帯すること

入管法改正(悪)法案が廃案にされたのが5月18日。

1つ課題が前に進んだかと思うと、最悪のニュースが飛び込んでくるのが日常になりつつあって、今日は「LGBT理解増進法」了承見送りのニュースが目に入った。

この文章を書きながらどうしても涙がにじんでしまう。

昨日、結婚報道を受けての「制度からこぼれ落とされる人たち」についてサラッと書いたのだけど、それ以前の話だった。

自民党は20日、LGBTなどに対する理解増進に向け、超党派議員連盟で合意した法案の審査を行いました。法案の目的には「性的指向および性自認を理由とする差別は許されない」と明記されていますが、出席者によりますと、「法を盾に裁判が乱発する」との意見が相次いだほか、「道徳的にLGBTは認められない」「人間は生物学上、種の保存をしなければならず、LGBTはそれに背くもの」などの声も上がり、法案に反対する議員が大勢を占めたということです。

「いろんな副作用も」LGBT理解増進法案 自民部会で紛糾 了承見送り|TBS NEWS

性的指向および性自認を理由とする差別は許されない」

当たり前だろ、と声に出したくなるけれど、どうもこの国ではこんな当たり前にですら疑義が涌く。しかも国会議員から。

「法を盾に裁判が乱立」「道徳的にLGBTは認められない」「人間は生物学上、種の保存をしなければならない」

驚いてしまうし、人をなんだと思っているのかと怒り狂いそうになるけど(乱立て、道徳的て、種の保存て…)、これが政治を担う人たちの発言だと思うと、途方に暮れそうになる。理解増進というのも圧倒的にマジョリティ視点でなんなのなんだけど。

「人を人と思わない」人たちが、生産性だの定義のよくわからない残酷な言葉を振りかざして、これまでも他人を踏みにじっている。

これまでには「女性は産む機械」なんてのもあったし、最近は”伝統的な家族像”を標榜する議員がYouTubeでDVシェルターの場所を明かしたこともあった(シェルターはDV被害者の一時保護を目的とした施設で、安全性を保つために場所は一切公表されないことになっている)。山谷氏の場合はトランス差別発言もかけ合わさって……。

 

わたしは生まれたときに割り当てられた性別が女性で、自分も女性だと思っているし、異性愛者だ。例えば、女性を取り巻く社会課題に関することには当事者としてかなり敏感に反応できるし、自身の経験や周りの経験から、リアルな実感を持って想像ができる。

シスジェンダーヘテロセクシュアルな自分は、こういった話題になると圧倒的マジョリティになる。特権を持っている側。この社会で生きることに不具合は少ないわけで、もしかしたら見当外れなことで怒っているかもしれないし、怒りを表に出したくない、悲しみや痛みを一人で抱えている、そんな人がいるかも知れないと思うと、心が苦しくなる。わたしなんかが騒いでいいのか、本当にわからなくなる。もし今回の件がよくある「誤解を招く発言」として謝罪されたとして、本質的に何が変わるのだろう、と思ったりもする。

でも、声を上げることにした。

結構好きな本に『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』というものがある(ブレイディみかこさん著)。そのなかで一番好きなのが、「エンパシー」と「シンパシー」の違いについての記載。いろいろすっ飛ばして言うと、「エンパシー」は他人の靴を履いてみること=共感や感情移入、「シンパシー」は同情・同意を指す。

今回の場合、LGBTと呼ばれる範囲に該当する方々に対してわたしは同情したいわけではないし、同じ立場から同じ口調で意見をいうこともできない。でも、「他人の靴を履いてみる」ことで、見える景色の違いや歩きづらさに気づくこと、あるいは気づくきっかけがあると思うのだ。ここから連帯が始まるし、”We”が始まるのだとも思う。

そもそも、当事者の方々は100%カミングアウトしているわけではないし、声を上げづらい方もいるんじゃないかな……そんなことないかな、違ったら申し訳ない。そんな方々も(いるとして)生きやすい社会をつくるために、マジョリティの側に立っている自分が動くのは、事を早く進める一助になるんじゃないかなと思う。

 

あまりのできごとに、長々と…。論点は尽きない話だし、まだまだ学び、言葉を尽くして語らないといけないことはたくさんある。でも、戦う当事者の方がいる限りは、差別に加担しない選択を、取り続けようと思います。(たくさんの発信されている方、声を出さないでいる方の状況を思い浮かべる。わたしはなんにもできない。本当に不甲斐ない)

 

(法整備すべきかから発言の是非まで、当事者の中にもいろんなグラデーションがあって当たり前だと思っており、また、この報道へ関心の有る無しも自由だと思っています。あくまでわたしの立場を記したごく個人的な日記です)

 

特に女性は、怒りをあらわにすることになれていないといわれたりしている。怒る準備をしていないと、大切なものを踏まれていても、あっけに取られて主張をすることができないことが往々にしてある、と。怒りは大切なエネルギーであり、決して絶対にネガティブなものではないと、伝えていきたい。

 

本日は自転車に乗って、隣の街までいった。片道10分もかからずにバスで行っていた街につくなんて…と感動した。思い切って車道も走ってみたけど、めちゃくちゃ怖いやん東京の道…。明日は普通に散歩に行こう…。

2021年5月19日(水)のこと/明晰夢と結婚報道

全身が痛かった。

非力にも関わらず、昨日は20kgを超える自転車を力づくでアパートの2階に上げ、下ろした。20kgは字面よりも1億倍重い。久々の超全身運動に身体は震え、「明日はやばい」と思ったが、案の定の筋肉痛である。

くわえて、この天気。

起床時から感じていた体のだるさ・頭の鈍痛・異様な眠気は時間を追うごとにひどくなる。正午から久々の歯科検診だったのだけれど、起き上がりたくない…と心底思いながら起きて向かう。えらい…。

 

口内をきれいにしてもらい、帰宅途中には駅前の本屋に寄る。買おうと思いながら逃していた、こだまさんの『縁もゆかりもあったのだ』を購入した。 

帰宅。身体中が重だるく、重力に逆らっていられない。起床後水しか飲んでおらずで、本当は何か胃に入れたかったのだけど、耐えきれずダウン。昼寝をする。

二度寝・昼寝では悪夢や明晰夢、金縛りに遭うことが多い。今回も明晰夢をみた。先ほど購入したばかりの本を読了してしみじみしている夢。(実際には未読)

感想をあれこれ考えている途中で、夢だと気づく。明晰夢はここからが面白く、「読んでもない本を読み終わった夢を見るなんて、わたしはどれだけあの本を楽しみにしてるんだろう」「この内容を日記に書こう」なんてことを夢の中であれこれ考えられる。そんなことをしている間にだんだんと身体性が戻ってきて、ふっと目を覚ます感じだった。

 

としている間に、結婚報道でタイムラインが湧く。

去年のコロナ禍でのさまざまな訃報以来、ネガティブでもポジティブでも、著名人のプライベートな報道についてSNSでなにか言及することがしんどくなってしまった(働いていた領域にも関わるからだと思う)。

ものすごく制限されたなかで関係性やプライバシーを保つことの難しさが想像にたやすいこともあるんだけど、SNSに浮かぶ仕事が手につかない「ノリ」(本当にリアコの人とかは仕方ない気もする)とか、隠れ推し発言とか、「〇〇許さない」的なつまんないこき下ろしとか、よくわかんない分析とか、産むかもわかんないのに「絶対素敵なお子さんが生まれる」みたいなうっすら優生思想を感じるコメントとか、あの人で大丈夫? みたいな思いやりに見せかけた野次馬根性とかに嫌悪を感じる。

今後デカめの発表のあとはSNSをオフにしようと思った。結婚でも出産でも、不倫でも死でも、他人のプライベートを消費することはしたくない。(ほんとうにおめでたいと思ってる人がたくさんなのもわかっているし、自分のことのように祝福できる気持ちはうつくしいなって思う)

もちろんわたしもおめでたいと思っているし、個々の報道に意見を持つことはある。

ただ、当事者が商品としている部分以外の私的なところに、自分を投影したり同一化したり、都合のいい解釈を与えたり、みたいな、その人たちをモノとして扱うような言動を、取りたくない。


婚姻制度についても考える。結婚したくてもできない人たちのこと、選ばなかった人たちの意思と立場、1人で生きていくと決めた人のこと。他者の私生活を消費する世界の先には、すでに存在する制度からこぼれ落ちた人たちが仕方のないものとして処理される世界も、ある気がしてしまう。

 

と、考えた1日。こんなのだれもわかってくれなくていい。

 

梅雨がくる。心して生きる。

2021年5月18日(火)のこと/相棒を手に入れた日

買おう買おうと思って欲望をほうっていた自転車を買った。深い緑色の車体。


帰路、梅雨を感じさせる湿気のなか、思い切ってこいでみる。その瞬間目の前が開け、爽快な風がわたしを包み込み、これから訪れる快適な生活に心を震わせた。

という劇的な心情変化なんてものはなく、こわごわとペダルを踏み込む。一足ひと足、ただ踏み込むことをして、ときにその速さに魂が置いてけぼりになるような感覚で、震えながら帰った。(魂とかいいたくなるのは、呪術廻戦の影響だ)


乗ってみてわかったけど、わたしは自転車偏差値が低い。歩道を走るのか車道を走るのかもわからない。人にぶつかりそうで自分が信じられない。帰ってから「初めての自転車ガイド」を熟読した。(「車道が原則、歩道が例外」だそうだ)

 

帰宅して、うちのアパートに自転車置き場がないことの重大性を実感。

他の部屋の人が家の前に自転車を置いているもんで、自分もそうすればいいと思っていたのだけど、うちは2階の一番奥の部屋。鉄筋の、自分の1.5倍長くこの世に存在しているアパートにエレベーターなどない。

ひとまずチャレンジしたものの、通路の幅も、階段の角度も、何より車体の重さが……圧倒的に「無理」だった。(よく見ると、他の部屋の住人は大抵折り畳み自転車である)

調べて買えと思うが、重さも大きさも、自転車置き場がないということの苦しみの可能性全てが頭からスコンと抜けていた。つくづく、自転車偏差値が低い……。

とりあえず上げるだけ2階に上げてみたけれど、腕も脚もプルプルと震え、銭湯帰りのように汗ばむ。

「これはやばいな(100%乗らなくなる確信)」と思った瞬間に20kgの自転車を見つめながら、物理的に震える手で大家さんに電話していた。とりあえず1階通路に置いていいと承諾を得る。ありがたいね。


ということで、相棒ができました。


大好きな少年アヤさんは自転車の相棒に「ロンリー」と名づけていて、ほんとにいい名前だなぁと思っている。音もいいし、ことばもいい。哀愁もあるし、自転車ひとりでどこかに行ってしまいそうな、さすらうかんじが漂っていて。

わたしの相棒にもそんな名前をつけたいと思うけど、こういうとき、わたしは気合いがから回ってしまうのだ。豆生田にしようかな…。


そういえば、大家さんから謎の信頼を得ているわたし、電話にて「10×号室の方、夜逃げしてらっしゃらない?」と聞かれる。

なんでも、家賃の支払いが滞っており、電話も出てくれないとか。「電話に出てくれたら、いろんな制度もあるから、お話もできるんだけど……」と、そこまで困った風でもないようにお話しする大家さんは、電話と手紙でしかやりとりがないけれど、かわいらしくてちょっと下世話で、しっかりとした方だなと思う。

にしても、夜逃げしてらっしゃらない? のパンチライン。善意をひしひしと感じるので、「電気はついているようでした」とだけ伝える。

 

今日は『映像研には手を出すな!』を少し見進めた。女子高生が主人公だとしても、こういう描き方のものは不安を感じずに見れるのだ。

明日は歯医者に行く。

2021年5月16日(日)のこと/メンタル不調と資質

最終出社を迎えてから、どうしても心が晴れなかった。

Web周りの勉強をしても「わたしやっぱりデザインとかは進行している方が好きかもな〜」なんて思ったりして。自己分析や読書を重ねながら、今後どうしような〜と。

 

昨日までそんな感じでどうにもどんよりしていた気持ちは、今日はどこか換気されたような感覚だった。

 

話は変わって、今日は、3年ぶりにクリフトンストレングス(ストレングスファインダー)をしてみた。結果、取り組んでみてよかったと思っている。資質は変わらないとはいうけれど、3年前とはやっぱり立場もスタンスも変わっているし、定点観測的に行ってみてもいいかも、と。

 

TOP10でいえば5つの項目は前回通りで順位も変わらず、今回変わっていたものもランクインしていたものも納得だった。し、自分を知ることがいまはなにより大切な気がしていて、自分の中の「変わらないもの」「深まっているもの」が可視化できてよかった。

 

と、冒頭の「どこか換気されたような感覚」の話に戻る。

なんとなく晴れない昨日と今日で生活習慣はあまり変わらず、何が違うのかといえば、SNS等で他者へのアクションを多めにしたことかもしれない。と、改めて自分のクリフトンストレングスの結果を見ながら考えたり。

 

3位に3年前もいまも変わらずにある「共感性」。

自分の場合、心安らかになれているときってこの資質が本当に大切だと思う。

誰かの気持ちに「わかる〜」と思ったり、「こう思っているよ」と伝えた言葉にポジティブなリアクションが返ってきたりすると、なんともいえない喜びと充足感がある。自分のなかにある共感を言語化して、他人の共感を呼ぶこと。内向的ながら人間関係構築力に資質が偏っている自分は、他者との確かで肯定的なつながりで「癒やし」を感じるんだなと思った。

退職したいま、他者にささやかにそれを伝える機会がぐんと減ってしまった。いろいろな方とSNS上でもお話をした今日、そのささやかに「共感を伝える」営みができたことが、心の健やかさにつながったのかもと思ったりなんてした。(確か去年の緊急事態宣言中も、「ささやかな他者とのやりとり」がなくなって落ち込んだのを思い出す)

 

逆に、強みの「内省」「適応性」が暴走すると、ダークサイドにも落ちやすくなる。

組織や雰囲気に過剰適応して考え込み、何も動けなくなるというのがはるか小さな頃からのくせになりつつある。いま職場から解放されたはずの自分も、この「なにもタスクがない状況」に対してそれをやってしまったなと思う。

 

改めてでてきたTOP10の資質についてもう一度本も読み返しつつ、この期間を自己研鑽にあてたい。

 

ほおの裏側を思い切り噛んでしまった。口内炎になりませんようにと祈り眠る。

明日は自転車買いに行けるかな〜。